すぐ傍にあるしあわせ
世の中を反映してか、資格試験に挑戦する人が多いそうな。

職業上、必要に迫られてではなく、
何か漠然と「資格でもとっておこうかな」といったものが、少なからずあるようだ。

資格でも・・・って、随分と安易な発想ではあるが、
世の中、片手間に取れる資格があったとしても、
そう簡単に収入アップや、はたまた好条件の転職に至るとは限らない。
また、片手間では取れないような資格にいたっては、並大抵の努力では取得は難しいのは言うまでもない。

よく自主学習(独学)で、通勤時間などを利用してチャレンジするケースも多々ある。
しっかりと学習計画を立て、実行に移していないと、おそらくは流されてしまうことだろう。


とある、まったく畑違いの難関資格に挑戦している後輩がいる。
その彼からそのことを聞いたのは、もう3年前の話だ。
まったくの独学だそうだが、進捗は思わしくないらしい。

そんな彼に私は一つだけ質問をしたことがある。
『いつまでに合格したいの?』

彼は『う~ん』と苦笑いしたまま明確な回答はなかった。

難しい資格である事はわかっている。
が、 「合格」という目標到達位置は立てても、
「いつまでに」という時間軸がないのだ。

「あわよくば受かりたい」とまでは失礼ではあるけれども、
なんとなくそう感じてしまう、覚悟の無さを感じざるを得ない。





ところで、これは何も資格試験の話だけでなく、
悩みを信心で解決しようと思っている人にも当てはまる。

時折、いつも自身を 「頑張ってる途上」 のアピールしているしているけれども、 
結局、 「いつまでに叶えたいのか?」 が見えてこない人がいる。 

自分で期限を切らんと真剣勝負にならない。

少々生意気を言うようだが、
「期限」とは、覚悟の異名だと私は思う。

これは他人事として評論家まがいに突き離した意味で言うのではない。
自分の経験からそう言えるのです。

厳しいことを申し上げることになるが、
明確な目標を立てない祈りは、ただの念仏だろう。
(念仏とはいっても、宗派の話ではなく、概念として「念仏」のスタンスだと指摘させていただきたい。)

したがって「無限地獄」であり、 (念仏無間地獄)
苦しむのも「当たり前」ということ。 


迷いが迷いを呼び、結局は無限ループ。 
「頑張っているアピール」はするものの、
何がしたいのかさっぱり分からない。 (少なくとも「見えて」こない。
ぐるぐる同じところを回っている。 

そいう人をみるにつけ、「期限」を切ることの大切さを痛感する。





ブログやSNSに「自分エール」もいいが、
結果を出す以前に、書く事それ自体が「目的化」している人もいる。
要するに、言っちゃった時点で満足している姿だ。
こういう人が、SNSに安住してしまうのである。

こうした「空手形」の乱発は、やがて不渡りとなり、ついには倒産だ。
ご同志である。
そんなことになってほしいわけがない。

しかし、創価系ネットコミュニティの中には、
ぬるま湯の如く、いつまでもそうした無限ループの中に「飼い殺し」している例がある。残念だ。


『ゆでガエル』 の喩え をご存じだろうか?

鍋に入れたカエルは、最初はその心地よさに浸り、逃げることもせず、やがて茹で上がり死ぬ。


ネットコミュニティで励ましているつもりが、度が過ぎる安住にその人を飼い殺しにし、
結果的に依存を招いている。

罪なものである。





「信心」
つまりは、信じる心。
題目といっても、何時間唱えようと「信じる強さ」がなければ意味がない。

では、信じる強さとはどこにあるか?どう「伝える」か?
僭越ながら、究極の「叶う祈り」をご伝授したい。

祈りの中に、
『叶えて下さってありがとうございます』 と、先に「感謝」するのです。

まだ叶ってもいないのに感謝とは、いささか滑稽ではある。
が、 『叶うはずだ』という強い確信がそこにないと、絶対に言えない祈り といえる。

その「絶対に叶える」という確信と覚悟が、「今」必要だ。
因果具時である。




今回の記事の最後に、これを贈りたい。

「変わらない」のは、「変えようとしない」からだ。 



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【2017/09/10 00:11】 | ◇人生哲学
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