すぐ傍にあるしあわせ
今年の「24時間テレビ」での二つの出来事。
少し綴ろうと思う。---



■羽生選手からのエールを、心ない〝言葉の変換〟で伝えたテレビ局


スケートの羽生選手が、同じ喘息を患っている子どもたちに、

『喘息を持病として持っている人にとって、咳がでるのは普通のこと
だから人と比べる必要はない。 いつか一緒にスケートの練習をしよう!』 

…とのエールを、テレビ局は
『羽生選手が病気を言い訳にせず世界で活躍』と〝変換〟した。


テレビ局のこれに、批判が湧いている。 

静かに羽生選手も抗議の意思を示したという。


喘息(病気)は「言い訳」なのか? 

重い病気や完治が難しい病、あるいは障がいで、本当に運動ができないお子たちが、
僕は言い訳をしているのでしょうか』 と思い詰めてしまう。

心ない言い回しに変換したテレビ局は、事の本質を全く理解していない。


羽生さんのエールは当然ながらそんな意味ではない。
障がいや病をテーマにした番組でありながら、この有り様だ。


喘息を自然なこと、当然のことと受け入れ、
そこから自分らしく、そして目の前の出来事にチャレンジしゆく
---

「言い訳にする、しない」なんて話ではない。
「言い訳け」という言葉の裏にある、 「後ろめたさ」など微塵も感じる必要など、一切ないのだ


◇ 


そういえば、時折みかける〝信仰体験〟に、これに似た根っこが見えるケースもある。
「治った」ことが偉大な信仰の本質ではない。

例えば、 
オレの難聴は物理的に治らない。 
色覚異常も治らない。

これでどれだけの悔しい思いや、辛い思いをしてきたことか。

しかし、時に助けられつつ、
 時に〝克服〟し、
  自分の居場所を懸命に作り上げ、 そして生きている。

たとえ治らなくとも、
キラリと光る、「自分だからこそ」の場所をつくることが大切なのだと。

「言い訳」にして逃げるのではなく、
ありのままの姿〟で、「克服」してきたんだ。



■義足のダンサー・大前さん、『ありのままに生きる』。


もうひとつ、この今回の「24時間テレビ」で、目にとまったものがあった。


義足のダンサー大前さん---。

ダンスについて全く無知なオレが下手なコメントは差し控えたいが、凄すぎる。
クラシックバレエに根差した「表現」の世界は、音楽ユニットで踊っている人たちとは世界が違う。  

ハンデキャップを乗り越え、
その大前さんは言う---

 『ありのままに生きる』。



■「壁」に挑戦しているか?


よくネットで、 
基本的には 「自分のわがまま」 に過ぎないものを (厳しいことをいうが、そうだろう?)
いとも簡単に
「自分らしく」だとか 「ありのままに」 って言う人がいる。


そういう人に限って、【壁】に挑戦していないことが多々あろう。(全てじゃないが) 

まったく意味を履き違えている。

(※大前さんとは真逆だわな。)



薄っぺらい信仰美談にすり替えてはならない。





野球の「ファインプレー」について聞いたことがある。

『 飛びついて捕球より、先回りしてしっかり捕球。 これがほんとうの「ファインプレー」である。』  


華々しいホームランのような、ネット上の信仰美談の、
「表紙の裏」を読み解かねばならない。




■それでも前に進む意味---

今回のラストに---

今ふと思い出した指導(体験談)がある。


骨肉腫の少年の話。
ある男子部員が背負って入会の場(当時ご受戒)へ。

少年「足が生えますか」
青年「生える!」。

そんなわけがない。少年だってわかっている。

未入会の両親の制止を振り切って猛然と題目。
死の淵に、「生える!」の意味を悟る少年。

両親を折伏し霊山へ---。涙。




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【2017/09/03 00:11】 | ◇人生哲学
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