すぐ傍にあるしあわせ
◇「対治」と「同治」  
~恣意的か故意か? 御書解釈にみる「大聖人利用」の過ち。



一般的に、攻め(責め)滅ぼすことを「退治」という。時折この退治と同じ意味で「対治」という漢字を充てる場合もある。
しかし、この「対治」を使う場合、注意が必要だ。 
なぜなら、この「対治」の、ある意味ステップアップである「同治」という言葉の意味を並び比べればそれがわかる。ともに仏教用語だ。

例えば、悲しんでいる人に 『悲しんでも仕方がない。元気を出して』 と言って悲しみから立ち直らすのが「対治」であり、
更に一緒に涙を流すことによって、心の重荷を降ろさせてあげるのが「同治」だ。 
わかるだろうか? 同治は相手と同じ立ち位置に寄り添うものであり、まさに『同苦』と言えよう。

日蓮大聖人が『速(すみやか)に謗法の者を治すべし』と言ったこのケースは、
例えば「三類の強敵」というよりも、邪教で不幸になる人を救って(治して)あげなさい、とういう行動を説いている。
そこには当然、対治と同治を前提にした「治す」が込められている。

大聖人の謗法呵責の御書の中で、厳しく「責め」「攻め」を説く御文もまた多い。
しかしながら、時にそれは「三類の強敵」に対する戦いであると同時に、そこへの誤って帰依する民衆を「救済」する一念であらねばならない。
誤りに気付かず、その結果としての病いや宿命に苦しむ姿に対し、同治(同苦)する姿だ。

まさに、この後者の姿がさきの御文といえよう。だからこそ「治」という言葉を大聖人は使われた。
 『大聖人のご指導は、高度で難解な大哲理から、平仮名しか読めないご婦人に充てられたお手紙まで、変幻自在である。』(戸田先生) 

結論。 いろんなケース、場面において意味があって説かれる御書。 そこを理解して、このたびの「治すべし」を読まねばならない。 
謗法呵責は当然だ。しかしながら、勢い余って「攻めよ!責めよ!戦え!」で何もかもを「一緒くた」に「解説」するのは、正確さを欠いた「大聖人利用」になる。

御書・指導の引用は慎重でありたい。
責任の所在が曖昧なネットブログなら尚更だ。



※「Amebaなう」への投稿より抜粋、編集。

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【2017/08/23 04:30】 | ◇人生哲学
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