すぐ傍にあるしあわせ
タイトルを迷ったんだ。
タイトルが既にこの記事の結論。


---が、まだ伝えたいことがある。

先ず、この貴重な映像と、感動歌詞の動画をひとつ。




ある人が言ってた。
二万人死んだ・・・
違う、 「ひとりが死んだ」事件が二万件あったってことなんだ、って。

かけがえのない家族のひとりが亡くなり、
悲しみのどん底に突き落とされる・・・
そんな一つひとつの出来事を、「二万人死んだ」で束ねたくない。


この動画の、5分を過ぎた頃の一枚の写真を見てほしい。
実はこれ、新聞の記事になった写真だ。

幼い女の子が、自分で書いた一枚の傍で眠りについている。
読んでほしい。

そこには、「ままへ」で始まる----
この子の母親は、津波に流され帰っていない。
死の意味すらわからないこの子にとって、
ただひたすらに、母の帰りを信じ
母がいつも使っていた携帯電話を離さず、鳴るのを待っている。
「おげんきですか、いきているといいですね。」と結ぶ。

ひとつ
そして、またひとつ。
それぞれの物語が、何百件、何千件もの「ひとつ」なんだ。



どうしても親目線で見てしまう。
自分の命が散ることよりも、
残して逝くこと、
大切なものを断ちきられることの、
どうしようもない悔しさが、
きっとその子の親もあるんだとと思う。

突然の、何の前触れもなく。

誰しもが「日常」だったんだ。
その日常の上で、起こった出来事なんだ。


その「日常」の、やれることをやりたい。
自然災害だけじゃない。
突然の事故や、不注意、健康に関することだってそう。
だから、僕は自分の力でできることがあるなら、やるべきことをやる。
否、やらなきゃいけないんだ。
「必ず帰るんだ」----
そう、心に誓って。

僕はこの記事を目にして以来、
この切り抜きを、いつも仕事(通勤)の鞄に忍ばせている。
ほんとうの話だよ。
ほら、こうして今もある。 広げてみせようか。

P8030655.jpg


僕は毎日誓う。「必ず帰るから、無事故で」
いくつかの危険も伴う職業柄、無事故は勝ち取るものだと…。

できることは、
すべてやる。


誰だって無事に、
そして、
「あたりまえの毎日」がつづきますように-----。

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【2017/03/11 23:00】 | ◇人生観・福祉共生
|
身障者関連や高齢者福祉について、
とくに興味もないし、使命感もない。
ましてや、ライフワークにするつもりも毛頭ない。
でも、実は福祉系資格は持っている。
だから…といった感も殆どない。
そういう職についたこともないし、今もそう。無縁。
偉そうに、どういった福祉関連の思想を持っているから…なんて意識をしたこともない。
十数年前まで、亡き母の介護があったぐらいだ。
(その関連記事は、今はなき“前ブログ”に書き留めたのだが…)

ただ、日常での「気づき」については「行動面」での自負はある。
そう、イザというとき、どう「カラダが即座に反応するか」が、もっとも大事なんだと思う。
だからこそ、僕はそれに沿って動く。


■されど、「段差」。  ~この高低差は手強いぞ。

『あ、あぶない!』------
突如、それは訪れた。

地元の駅前、まもなく信号だ。

腰のやたら曲がったオバァちゃんがカートを押して渡っているのが見えた。
スローな動きに、
『渡り切れるなかぁ…』 と思った。
『やばいなぁ、無理そうだ。』

最後の最後、僅かな歩道の段差が行く手を阻んだ。
オバァちゃんは車道側に取り残され、
車道の車を塞ぐ形に---。
『あぶねー』

信号の数メートル手前から猛ダッシュ!
先に近くにいた女性が介助しているのが見えた。
が、このまま車道にいたら、二人とも危ない。
私はとっさに車道に入り、
往来の車との間に入り、オバァちゃんの背中をカバーしつつ、
手を広げて車に 『避けてください』なゼスチャーで二人をカバーした。

が、なかなかオバァちゃんは、それ以上に前に進まない。何故???
足元をみると、ほんの僅かな段差。
たったこれ程の段差がオバァちゃんにとっては、まさに「壁」となっていた。

注意しないといけないことがある。
カートと腕を伸ばした体との差(バランス)が崩れると、おそらくカートだけが前に進み、
オバァちゃんの手は支え続けることはできす、前のめりで転んでしまうだろう。

(※高齢者は、僅かな転倒でも簡単に骨折をしてしまう。
高齢者の骨折は長引き、そのまま寝たきり、寿命さえ縮めてしまうことだってある。
そんなキッカケになっては一大事だ。
良かれと思った手助けが、事と次第によっては大きな責任をも含んでいる。
高齢者に対する思いやりの手助けとは、そういうことだ。)

たったこれだけのことだけれども、オバァちゃんのにとってはようやくの脱出劇。
とりあえず、ヨカッタ。
女性のとっさの行動も、お疲れさま。
素晴らしい反応だったね。


だが、よくよく考えれば、
高齢者にとって、街歩きは大変なことなんだと痛切に感じた。
だからといって、家に閉じこもっていたら健康にも良くない。
だけども、困難と危険の連続だということ。

いつかは自分も歳をとる。
なんだこれぐらい、といったものが
とんでもなく立ちはだかることだってあることだろう。


次に、
こんどは、所用で神戸に行ったときだった---

長田区の山の手は、やはり坂の町。
普通のコンビニすら、普通でなかった。

こんなところばかりじゃないんだろうけど、
なんとも、入り口がかなりの段差だ。
申し訳ない程度に、その段差の横を30度ぐらいの「スロープ」もどきはある。
が、階段の一歩すら登るのに困難なお客さんにとっては、
もはや「来なくていいよ」みたいな崖のようだった。

私が商品の清算をし、店を出る時、
案の定、店先で立ち往生したおばちゃんがいた。
さほど高齢というほどではなかったが、やはり何がしかの身体機能に難があるようだ。

私ができることは、『何か手伝いましょうか』 から。
『(店に)行きたいんやけど、足が…』
『ほんなら、僕の腕を持てます?、持ってー。』
ヨイショっ。 ふーっ。
『すんません』『いえいえ。』

ほんま、たいへんですわ。
なんでこんな段差なんやろ。
普通の、ありふれた風景かもしれませんが、
そのことすら、たいへんな思いをして生活している人たちがいる---


でもね、
私らがいる。
どこにでも 「私(あなた)」 がいる。

躊躇したら、あきまへん。
恥ずかしがったら、あきまへん。
やれること、なんぼでも(いくらでも)あるんです。

福祉に興味がある、とか
ボランティアしたい、とか
ええんですけど、
その前に、目の前の日常に、「気づく」かどうか---- ですよね。


そういえば、以前こういう記事も書きました。

 ◇何を躊躇しているのだろう?
  ※当ブログ・カテゴリー : 人生観・福祉共生より



「見て見ぬふり」とまでは申しません。

ただ、
『なにも、俺じゃなくても…』 といったものが あるのでしょうか。

口では皆さん、イイことをおっしゃるんです。
でも、どんなスタディをしても、
どんなに、イイ計画(ビジョン)を持っていても、

ほんとうに「あなたの力」を必要としている瞬間って、
突如やってくるんです!

何を考えているか?ではなく、
その瞬間、何ができるか?です。

まことに僭越ながら、
「ここをお忘れなく。」です。





本日の記事の終わりに----

私、 「耳」 悪いです。
悔しいです。

もし、普通だったなら
もっと人の輪の中に入って、クダラナイ話だってもっとできたでしょう。
クダラナイ話のなかからこそ、人脈はできるものです。
職場で私が足りないものは、そこだと、よぉく知っています。

でもね、怖いんですよ。
何が?
---何度も聴き直すのが。
「え?なんて?」
「え?」
嫌でね、これが。

ああ、
だからといって孤立してんじゃないですよ。
ちゃんとコミュニケーションとって、普通にはやっています。

ただ、「もう一歩」が足りない。。。

足りない理由が、
聞こえなくて、聞き直すのは嫌…なんです。

こんなこと、言ったことなかったっけ。


それでも、根が明るいし、サービス精神旺盛なほうだから
初対面だろうが、知らない人にだって、何の躊躇もなく飛び込んでゆける。へっちゃら。
だけど…


人はいろんな事を抱えているわけ。
弱みや、ハンデキャップ。
自分だけじゃない。

だけじゃないから、こそ
分ってあげなきゃ。
近づいてあげなきゃ。

スローガンや、パフォーマンスは、もういいってば。
自然に、自然にやろうや。

やれること、
沢山、そこいらへんに なんぼでも転がっているから。




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【2016/11/29 00:01】 | ◇人生観・福祉共生
|
(9/12初稿掲載の解答付き新規記事です。)


パラリンピックの熱戦に感動しましたね。

さて今回は、
目のご不自由な方の「人権」を尊重するいう視点で、ひとつ考えてみましょう。

これは「人権」のケーススタディです。


Q:例えば貴方は、夜景の素晴らしいレストランの店員だったとします。

ある日、目の不自由な方が店を訪れました。
さて、貴方がどちらの席をご案内しますか?



①目がご不自由であっても、お客様もきっと美しい夜景が観たいに違いない。 
だから、店員のいる場所からは少し離れているが、奥の窓際の、夜景がよく見える席をご案内した。

②何かあっては大変だ。 だから私たち店員がいつでも目が行き届き、お客様からの声も届く、
できるだけ近くの席をご案内した。

③その他。



では、 しばしお考えください。

考え方は人それぞれだと思います。
しかし、今回は最初に申しましたとおり、「人権」のケーススタディです。
したがいまして、「正しい」答えがあります。



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答えはコチラ。


....................................................


【正解】  ③その他   『お客様ご自身で選んでいただく。』


大切なことは、「自分で決める」 といったこと。


どうでしたか?


もし、「介護」に似た着眼点であったなら、②かもしれない…。

また、①を選んだ人は、「健常者と同等に扱っている」という視点がある…。

たしかにどちらも大切なことではありますが、
でも、ややフライング気味といえます。


でも、設問でも申し上げたように、 「人権」とは何か?を考えたとき、
普通に我々があらゆる場面で「選ぶ」ことのできる権利が、
同様に、どんなハンディキャップのある人にも備わっている とうこと。

「ハンディキャップがおありなんだから、こうだろう」…

こういう思い込み が、知らず知らずのうちに、
人権という大切な視点(機会)を奪ってるやもしれない…

くれぐれも気をつけたいものですね。


ただ、勘違いしないでほしい。
選ばせておいて、放置ではありません。


ハンディキャップを支えて差し上げる行為は、周囲の当然の「前提」です。
その上で、
勝手に我々が「こうじゃないかな?」と思って「押し付ける善意」ではなく、
先ずは「どうされたいのか? 」があって、
次に、そ・の・た・め・に、「どこが(何が)お困りなのか」を、支えて差し上げるのです。

この順序をはき違えてはなりません。



健常者が陥やすい勘違いとして、

「お役に立っている」という思い込みの前提で、
なんら省みる事もなく、物事をノンストップで進めることをたまに見かけます。

そんなものはただの自己満足、
言い換えれば増上慢です。






実際、どんな場面でどうすればよいのか?

距離を縮める「勇気」です。


『何かお困りのことはありませんか?』

日常、いろんな場面で眼の不自由な方がいます。
こう、言葉をかけられる人って、見ていて意外と少ないのが現状です。






余談になりますが。

思い出すと、この春。
おそらく、はじめての就職を控えた(であろうと推察される)、目の不自由なお嬢さんが、
お母様と一緒に、駅の(たぶん)下見に来られていました。

事前にいろんなことを調べているんでしょうね。
何かの位置だとか、歩数だとか、危険個所も。
お母様と一緒に、確かめてらっしゃいました。


日がながれ、出勤時間帯。
最初は改札の入り口までお母様が見送りにきていました。
「行ってきます」
そんなやり取りがあって、
お母様も、さぞ心配だったのやもしれません。


駅のハード面は万全か?
通勤のみんなも何かあったら手助けしていれるかな?

私も内心、親目線でそわそわが止まりません。
なにせ、わが娘と言ってもおかしくない年頃のお嬢さんです。


どうしようもないけど、
いろんな想いがまじって、
不覚にもこみ上げてきます。
よくわからないんですよ、このウルウルが。

頑張ってほしい、
ただただ、そう思う。
これから続く、長い長い旅路に、
おじさんも、貴女の幸せを陰ながら応援してします。


と、締めくくるのはまだ。


続きがあります。

ある日、
こんどは、ちょうど仕事の帰り、改札に上がってゆくと
彼女(お嬢さん)がお一人で何かを待っています。

『何かお困りのことはありますか?』
と、とっさに、声をかけました。

なんてことはない。
お節介な私は、こういうのはかなり多いので。


---にこっ。

彼女の素晴らしい笑顔が。  (おっちゃん、びっくりしたよ・笑)

『あ、ありがとうございます! 大丈夫です。』


満面の笑顔に、ほっこりさせてもらったのは私。 (おっちゃんこそ、ありがとう!)



ただ、その笑顔の瞳の奥には、
やはり、光を通さないであろう瞳の独特の姿があった。
過酷な現実がそこにあった。


『おっちゃんも、耳がだいぶ不自由で、いっぱい困ったことに直面するけど、
お嬢ちゃんのこれからのこと、ほんまにほんまに祈ってる。』
と、心の中でつぶやいた。


そうだ、

また会えたら、
こんどは「おはよう!」 と言おう。




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【2016/09/20 00:01】 | ◇人生観・福祉共生
|
石田三成公が大好きで、リンクもしています。

三成公といえば、
「大一大万大吉」の旗印ですね。

石田三成


この六文字が意味するのは
「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば天下の人々は幸せになれる」
といったものです。



その三成公----

好きだけど、その到底足元にも及ばない。
リスペクトしようとも、まるで似ても似つかない(笑)

時代劇でいろんな役者が演じ、いろんな印象操作もされてきたので、良くも悪くもイメージが伴う。
が、真実はどうか?
リンク先でのお話は、客観的な事を積み重ねつつ、筆者の結論を述べています。
個人的にはこの結論に賛同したい。
(先ずはこのリンクをお読みいただき、話を続けさせて頂きたい。)

折しも、大河ドラマで三成公も登場。
強大な徳川内府(家康)との暗闘が続いていますね。

秀吉の生前は殊勝にも、臣下の衣をまとい、虎視眈々と次を狙う内府。
時代の趨勢は、正史の運命にあるとおり。

失礼ながら、よくも悪くも徳川家康公の腹芸が一枚上であったということと、
のちに徳川側につく豊臣恩顧の武将も、生き残る上でメリットもあったと回顧する。
正論を説く、真っ直ぐな三成公よりも、自分が可愛いのは世の常、悪くはない。
が、それは現代の価値観。
義に生きることに生きる価値を見出す時代に、徳川に付くことに義はない(と思う)。

三成公は腹芸のできぬ男だと思う。
そんな三成公が大好きだが、僕にとっては、一部は反面教師でもあります。
少しは腹芸を身に着けてゆこうと思う(笑)


「人生の師」を持つ身として言うなら、
三成公の生きざまこそ、 
我が師もまた、そのまた師に付き切った姿と被る。
だが不肖この僕自体、末弟子として師に遠く遠く及ばない。なんともまぁ情けないばかり。

さて、
20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男・石田三成公。

一方、名もなき一青年であった若き頃の我が師。
師がどのように戦いきってこられたかは、ここで語るべくもありません。
両者のその後の歩みは、その後大きく違いましたが、
三成公の戦いをみるとき私は、
我が師の姿もまたその遠くない位置にかぶって見えるのです。


のちの世につくられた三成公のイメージは徳川史観。
その史観のように、もし三成公に人徳がなければ
あれほどの大きな戦いすらできなかったでしょう。

ただの一人の脱走する兵もなく果敢に戦い全員散った石田軍。
将として一流であった証しです。

猛将、島左近とのエピソードしかり、
三成の傍にいた人たちは、側近から兵に至るまで、誰一人裏切っていないのです。


関ケ原が決着後、徳川軍が質素な佐和山城を見た時、三成公の真実を知りました。
私腹とは無縁の男でした。



徳川光圀公、西郷隆盛公、
多くの巨星がのちに、三成公こそ真の義の人とたたえたそうです。


誤解も多い人ですが、
静かに私はこれからも三成公を語ってゆこうと思います。

義とは、かくありたい----と。



現代人の私に、極限の状況下があったとして、できることは数少ないとは思います。
ですが、目の前の仕事や、
まもるべきものの前において、
愚直にやりきることの大切さをせめて胸に、がんばってゆきたいと思います。




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【2016/08/19 07:00】 | ◇人生観・福祉共生
|
最近、ドラマで  ( 「図書館戦争」 )
『正論は正しい。だが、正論を武器にする奴は正しくない。』
というセリフを聞いた時、 「ああ、これだ」 と思いました。

その時に「これだ」と気づいたのではなく、
最近、自分が言いたかった「ニュアンス」が、これに当てはまると思ったものです。


それは同時に、
過ちや失敗を「責める」よりも、「寄り添うもの」に通じます。

「何のための正論か?」
更には、「何のために正義はあるのか」を考えさせられるもの。
正論って、けっして「正義」には結びつかないのも確かです。

また、正論のために正論があるのではなく、
(つまり、例えば「組織維持」のためのものであったり)
「どうしたいの?」の答えの向こうに、
その「正論」が生きてくる。
それを生かさない「正論」であるならば、そんな正論なんて邪魔でしかないと僕は思うんだ。

だから、正論自体は手段のひとつであって、
けっして目的そのものではない。
正論をわかっているけれども、
それがその人を苦しめることだってある。
「正義」の目的がどこにあるか、しっかり見失わずにいたい。

そこから行き着くと、
アタックよりも、フォロー。
蘇生のプロセスは幾通りもある。

遠く離れた“演壇”から、
十把一束に正論をぶつけるのではなく、
膝詰めで、その人の重い荷物を支えてあげたい。

役割はいろいろあるかもしれないけれど、
僕は落ちこぼれた側、あるいは悩める側に寄り添い、
いっしょに這い上がってゆくほうを選ぶ。


バカには
バカの気持ち。
ろくでなしには、
ろくでなしの気持ちがわかる。

ああ、誰の事でもないよ、
どっちも、僕のこと(笑)


教科書にはない方程式を捨てないでゆく、僕は。





【2015/10/12 16:16】 | ◇人生観・福祉共生
|


プリッツ
その人の心に寄り添うことは、相手の話を聞いて良さを認めていくことなんだと思います。
誰しも人間革命の途中ですから、失敗も過ちもありますよね。
相手を責めていくより、自分の境涯を高めていく…日々の信心ですね。
そうなると相手のことを、大きく包みこめるのだと思います。
私もそうなれるように、日々生命を強く磨いています。

私の地区では、今月2世帯のご本尊おくりが決まりました。他にも幾つか良い報告があり、その話を聞いてよしやるぞー!と波動が起きています。
地区で皆さんがお題目を送ってくれるので、すんなりと相手が動いてくれています。
たくさんの人の活動報告を聞けるので楽しいです。
今日の夜は、私も活動報告しました。
(私も仏法対話しています)
嬉しくなったので、コメントをさせて頂きました。

寒くなりました。
生蔵さん、風邪をひかれませんように。
ご家族のためにお仕事を頑張られて下さいね。















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