すぐ傍にあるしあわせ
あー、どうも。宮部です。
うるせぇトリ

まじめにコラム&エッセイ書いています。
一応、自分の言葉で書いています。
数行で終わるような手抜きもしません。
毎回、ひとつ一つ力作です(笑)
文字であふれて、読むのがしんどいとの声もあるかもしれませんが、
私の場合、スマホで読んでもらうことなんて、まるで想定してないので。。。 自己満足です。


さて、表題にある
「スピンオフ」とは---

本来のストーリーから離れた、別視線のものを指します。

ここでは、番組の主題をさておき、
私の気づきを中心に、綴ってみたいと思います。


■こんな企業があったとは…

すべての人にとって幸せな職場とはとは、いったいどういうものなのだろう?
そう考えさせられる、あるドキュメンタリー特集をテレビで視た。

障がい者雇用で素晴らしい実績ががある、ある企業。
さまざまな工夫、取り組みがなされている。
粘り強く、強い信念がないと、とてもじゃないがここまでできない。
経営者のその思いに、言葉では言い表せないぐらいの敬意を表したい。


■Twitterで気持ちを発信

関連するサイトをご紹介したい。



しかし、私の関心はそこは勿論のこと、
ドキュメンタリーの中で登場する、ある健常者従業員さんに目が向いた。





Twitterという短い文章、限られた文字数の中で、言いたいことは「詰め込ん」だ。
あとはデティールにすぎない。

だから、繰り返しになるが、
多くの福祉関連の逸話で、困っている人に対し我々は「救うもの」としてしか見ていないのではないか?
(勿論、私も少なかれハンデキャップを抱え、あるときは助けられ生きている。)

しかし、救う対象としてしか見ていなかった障がい者から、〝彼〟は確かに「救われ」た---。


■社長の葛藤

障がい者を雇用する企業は、なにもこのN社だけではない。
ただ、障がい者雇用の継続は、並大抵の努力でできるものではない。
雇えばよいだけだとか、美談で済むものでもない。
そんな困難な壁にぶち当たるのは、スタッフもさることながら、とうの障がい者ご自身だってそうだ。


N社の社長もかつて、障がい者は福祉施設にいたほうがよいのでは?と思ったこともあったそうな…。

福祉施設は、障がい者さんのために存在する。
だからこそ、100%彼らのことだけを考え、応えてゆける。
しかし職場、とくに健常者中心で世の中の経済活動の真っただ中にいる企業はそうはいかない。
利益を挙げ、ともに生活基盤を支えるために働く場所だから。
そんな現実の差比があるにもかかわらず、
あえて仕事に来るという厳しい現実を選択することが果たして障がい者さんのためになるのだろうか?---
そう葛藤があったという。

でも---

人間というのは、自ら働く事でしか得れない何かがある。
日々働き、得た収入で食べ、住む。
その自分の居場所に存在価値をみいだすことができる。
社長が決断したそのことは、やがて苦難な道を乗り越え結実する。


■スピンオフ  ~ある健常者社員の転機

健常者のAさんは、社内における障がい者さんたちの輪の中で働くポジション。
身分は彼ら(正社員)とは異なり、繁忙期に臨時で募集する有期雇用の派遣社員だ。

それはAさん自らが選んで、あえてそういう働き方を歩んできた。
人と交わることを極端に嫌い、できるだけ距離を置いてそっと生きてゆくことを望んでいたからこそ、
すぐに辞めることのできる有期雇用をあえて選んできた。
この会社に来るにあたって、障が者と共にする環境であることは聞かされていた。
障がい者さんと深い人間関係を築く必要もないと考え、むしろ歓迎だったという。

ところが、障がい者さんたちはいつも、自分たちの輪の仲間に加わってくる人には興味津々…。
いくらAさんが「ひっそりと生きてゆきたい」と願おうとも、人懐っこく寄り添ってくる。
Aさんは最初は戸惑っていた。
これまでの職場であれば、Aさん自身が「近寄りがたい存在」であろうとし、避けていた。
しかしここでは、そんなオーラは通用しなかった。
彼ら障がい者さんたちにとって、そんな壁などまったく関係がなかったのだ。

彼らこそ、壁のない生き方を歩んでいるのだろう---。

このことは、筆者(私)も、ハッとさせられた部分である。

やがて、生き生きと働く彼らに出会い、時間をともにし、職場の共通目標に汗を流し、Aさんは変化してゆく---。
Aさん自身、それに気づいていた。
この職場に出会い、それまでの自分自身がつくっていた壁が消えていた。
そして何より、
Aさんは「救われた」のだと思う。

「ものがたり」のホシは、そこにある。




大根おろし猫
支え合うに、上も下もない。




にほんブログ村

※ブログ記事、一覧へ。

※「Amebaなう」はコチラ。
(日々、更新)

みやべ蔵之介Twitterもよろしく。

スポンサーサイト

【2017/08/20 00:07】 | ◇社会考察・福祉共生
|
タイトルを迷ったんだ。
タイトルが既にこの記事の結論。


---が、まだ伝えたいことがある。

先ず、この貴重な映像と、感動歌詞の動画をひとつ。




ある人が言ってた。
二万人死んだ・・・
違う、 「ひとりが死んだ」事件が二万件あったってことなんだ、って。

かけがえのない家族のひとりが亡くなり、
悲しみのどん底に突き落とされる・・・
そんな一つひとつの出来事を、「二万人死んだ」で束ねたくない。


この動画の、5分を過ぎた頃の一枚の写真を見てほしい。
実はこれ、新聞の記事になった写真だ。

幼い女の子が、自分で書いた一枚の傍で眠りについている。
読んでほしい。

そこには、「ままへ」で始まる----
この子の母親は、津波に流され帰っていない。
死の意味すらわからないこの子にとって、
ただひたすらに、母の帰りを信じ
母がいつも使っていた携帯電話を離さず、鳴るのを待っている。
「おげんきですか、いきているといいですね。」と結ぶ。

ひとつ
そして、またひとつ。
それぞれの物語が、何百件、何千件もの「ひとつ」なんだ。



どうしても親目線で見てしまう。
自分の命が散ることよりも、
残して逝くこと、
大切なものを断ちきられることの、
どうしようもない悔しさが、
きっとその子の親もあるんだとと思う。

突然の、何の前触れもなく。

誰しもが「日常」だったんだ。
その日常の上で、起こった出来事なんだ。


その「日常」の、やれることをやりたい。
自然災害だけじゃない。
突然の事故や、不注意、健康に関することだってそう。
だから、僕は自分の力でできることがあるなら、やるべきことをやる。
否、やらなきゃいけないんだ。
「必ず帰るんだ」----
そう、心に誓って。

僕はこの記事を目にして以来、
この切り抜きを、いつも仕事(通勤)の鞄に忍ばせている。
ほんとうの話だよ。
ほら、こうして今もある。 広げてみせようか。

P8030655.jpg


僕は毎日誓う。「必ず帰るから、無事故で」
いくつかの危険も伴う職業柄、無事故は勝ち取るものだと…。

できることは、
すべてやる。


誰だって無事に、
そして、
「あたりまえの毎日」がつづきますように-----。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


※再投稿
※ブログトップへ

【2017/03/11 23:00】 | ◇社会考察・福祉共生
|
身障者関連や高齢者福祉について、
とくに興味もないし、使命感もない。
ましてや、ライフワークにするつもりも毛頭ない。
でも、実は福祉系資格は持っている。
だから…といった感も殆どない。
そういう職についたこともないし、今もそう。無縁。
偉そうに、どういった福祉関連の思想を持っているから…なんて意識をしたこともない。
十数年前まで、亡き母の介護があったぐらいだ。
(その関連記事は、今はなき“前ブログ”に書き留めたのだが…)

ただ、日常での「気づき」については「行動面」での自負はある。
そう、イザというとき、どう「カラダが即座に反応するか」が、もっとも大事なんだと思う。
だからこそ、僕はそれに沿って動く。


■されど、「段差」。  ~この高低差は手強いぞ。

『あ、あぶない!』------
突如、それは訪れた。

地元の駅前、まもなく信号だ。

腰のやたら曲がったオバァちゃんがカートを押して渡っているのが見えた。
スローな動きに、
『渡り切れるなかぁ…』 と思った。
『やばいなぁ、無理そうだ。』

最後の最後、僅かな歩道の段差が行く手を阻んだ。
オバァちゃんは車道側に取り残され、
車道の車を塞ぐ形に---。
『あぶねー』

信号の数メートル手前から猛ダッシュ!
先に近くにいた女性が介助しているのが見えた。
が、このまま車道にいたら、二人とも危ない。
私はとっさに車道に入り、
往来の車との間に入り、オバァちゃんの背中をカバーしつつ、
手を広げて車に 『避けてください』なゼスチャーで二人をカバーした。

が、なかなかオバァちゃんは、それ以上に前に進まない。何故???
足元をみると、ほんの僅かな段差。
たったこれ程の段差がオバァちゃんにとっては、まさに「壁」となっていた。

注意しないといけないことがある。
カートと腕を伸ばした体との差(バランス)が崩れると、おそらくカートだけが前に進み、
オバァちゃんの手は支え続けることはできす、前のめりで転んでしまうだろう。

(※高齢者は、僅かな転倒でも簡単に骨折をしてしまう。
高齢者の骨折は長引き、そのまま寝たきり、寿命さえ縮めてしまうことだってある。
そんなキッカケになっては一大事だ。
良かれと思った手助けが、事と次第によっては大きな責任をも含んでいる。
高齢者に対する思いやりの手助けとは、そういうことだ。)

たったこれだけのことだけれども、オバァちゃんのにとってはようやくの脱出劇。
とりあえず、ヨカッタ。
女性のとっさの行動も、お疲れさま。
素晴らしい反応だったね。


だが、よくよく考えれば、
高齢者にとって、街歩きは大変なことなんだと痛切に感じた。
だからといって、家に閉じこもっていたら健康にも良くない。
だけども、困難と危険の連続だということ。

いつかは自分も歳をとる。
なんだこれぐらい、といったものが
とんでもなく立ちはだかることだってあることだろう。


次に、
こんどは、所用で神戸に行ったときだった---

長田区の山の手は、やはり坂の町。
普通のコンビニすら、普通でなかった。

こんなところばかりじゃないんだろうけど、
なんとも、入り口がかなりの段差だ。
申し訳ない程度に、その段差の横を30度ぐらいの「スロープ」もどきはある。
が、階段の一歩すら登るのに困難なお客さんにとっては、
もはや「来なくていいよ」みたいな崖のようだった。

私が商品の清算をし、店を出る時、
案の定、店先で立ち往生したおばちゃんがいた。
さほど高齢というほどではなかったが、やはり何がしかの身体機能に難があるようだ。

私ができることは、『何か手伝いましょうか』 から。
『(店に)行きたいんやけど、足が…』
『ほんなら、僕の腕を持てます?、持ってー。』
ヨイショっ。 ふーっ。
『すんません』『いえいえ。』

ほんま、たいへんですわ。
なんでこんな段差なんやろ。
普通の、ありふれた風景かもしれませんが、
そのことすら、たいへんな思いをして生活している人たちがいる---


でもね、
私らがいる。
どこにでも 「私(あなた)」 がいる。

躊躇したら、あきまへん。
恥ずかしがったら、あきまへん。
やれること、なんぼでも(いくらでも)あるんです。

福祉に興味がある、とか
ボランティアしたい、とか
ええんですけど、
その前に、目の前の日常に、「気づく」かどうか---- ですよね。


そういえば、以前こういう記事も書きました。

 ◇何を躊躇しているのだろう?
  ※当ブログ・カテゴリー : 人生観・福祉共生より



「見て見ぬふり」とまでは申しません。

ただ、
『なにも、俺じゃなくても…』 といったものが あるのでしょうか。

口では皆さん、イイことをおっしゃるんです。
でも、どんなスタディをしても、
どんなに、イイ計画(ビジョン)を持っていても、

ほんとうに「あなたの力」を必要としている瞬間って、
突如やってくるんです!

何を考えているか?ではなく、
その瞬間、何ができるか?です。

まことに僭越ながら、
「ここをお忘れなく。」です。





本日の記事の終わりに----

私、 「耳」 悪いです。
悔しいです。

もし、普通だったなら
もっと人の輪の中に入って、クダラナイ話だってもっとできたでしょう。
クダラナイ話のなかからこそ、人脈はできるものです。
職場で私が足りないものは、そこだと、よぉく知っています。

でもね、怖いんですよ。
何が?
---何度も聴き直すのが。
「え?なんて?」
「え?」
嫌でね、これが。

ああ、
だからといって孤立してんじゃないですよ。
ちゃんとコミュニケーションとって、普通にはやっています。

ただ、「もう一歩」が足りない。。。

足りない理由が、
聞こえなくて、聞き直すのは嫌…なんです。

こんなこと、言ったことなかったっけ。


それでも、根が明るいし、サービス精神旺盛なほうだから
初対面だろうが、知らない人にだって、何の躊躇もなく飛び込んでゆける。へっちゃら。
だけど…


人はいろんな事を抱えているわけ。
弱みや、ハンデキャップ。
自分だけじゃない。

だけじゃないから、こそ
分ってあげなきゃ。
近づいてあげなきゃ。

スローガンや、パフォーマンスは、もういいってば。
自然に、自然にやろうや。

やれること、
沢山、そこいらへんに なんぼでも転がっているから。




にほんブログ村


【2016/11/29 00:01】 | ◇社会考察・福祉共生
|
(2016.5.4初稿 ~ 加筆、再掲)

..............................................

筋電義手とは? ←クリック (Wikipedia)

※日本では障害者自立支援法の対象外。

..............................................



■Twitterを通じて

関西ローカル番組で特集がありました。
今回は、その番組を見ての後追いブログ記事。

既に、拙Twitterで投じてきました。
Twitterを通じ、思いもよらぬいろんな方と意見を交わせ、そして拡散します。
世論喚起といえば大袈裟となりますが、
Twitterのチカラを借りながら
議員や政党支持者を通じて、さらなる関心をたかめてほしいと願うばかりです。

Twitterは文字数に限りがあるものの、要点を凝縮し、言いたいことは既に以下のTweetのとおり。
だけど、どうしても言い足りないことを自分のブログで補足しました。
なお、願わくばTwitterアカウントをお持ちの方は、ぜひ関心の広がりにご協力を賜れば幸いです。





身体の部位が欠損した障がいをお持ちの方もさまざまです。
その中で、最新技術の発展で、機械のチカラによって「本来機能を補う」ことが可能となっている分野が出てきました。
その中のひとつ、筋電義手。

冒頭のWikipediaの解説にもあるように、実は日本におけるこの分野の広がりは以外に小さく、
待っているお子たちが本当に多いということを知りました。

最先端の技術の発展自体は素晴らしい。
でも、それが多くの(とくに)お子たちのところに届くまでは、
技術以上に、 「行政の隙間」が、大きな壁を作っているということを知りました。

今、問題になっているのが… というか、
問題にすらなっていないことが問題であって、
そのために、 「ここが問題だ」 ということを、広く知らしめたい のが、番組を見た私の思いです。





■ささやかな願い、切なる願い

障がいの子どもを授かった多くの親御さんには、いつも頭が下がる思い。
自責の念に苛まれ、悲しいでいる時間よりも、
その子の自立を願い、厳しく、甘やかすことなく接する姿が、余計に涙を誘う。

物心付いた頃に、自分の「人と違った部分」に気付く。
やがて、 「出来ないこと」に気付くわけです。

『グーばかりじゃなく、パーのお手手がほしい』

こうした表現の中に、どれだけの思いが詰まっているか、
想像しただけで、同じ親(目線)として、胸が張り裂けるぐらいの思いがよぎりました。

ただ、この「機械の手」があったからといって、全てが「生えてきた手」になるわけではありません。
でも、この「パー」に込めた思いの大きさに、せめてもの救いを、私たち大人は叶えてあげたいのです。





番組の後段、
こんどは、同じ障がいをお持ちの女の子。
彼女が、今回番組の“主人公”の男の子がつける筋電義手を、興味深く眺める姿に胸が詰まりました。
「興味深く」というより、「うらやましそうに」している…というのが、気持ちをよくあらわしているように思いました。

その女の子はピアノが大好きだそうで、器用に“6本の指”で弾いています。
右5本、左1本…指というより肘です。
何より、ご本人が「大好き」なピアノです。
それが健常者のように弾くことができない、つまり同じ「スタート」にも立てないことが、どれほどの悲しみ、辛さか。
ただ、この筋電義手があっても無理なのは事実です。
でも、切ない思いをほんの少しでも叶えてあげたい----。

私にはとても他人事のようには思えないのです。


しかし-----

ここからだよ、 もっとも大事なことは。



■届かぬ行政の隙間



さて----

「(医療)行政の隙間」 とは何でしょう? 

それは、たしかに「筋電義手」は保険適用です。
義手が多くの障がいをお持ちの方に役に立ち、けれども高額ゆえに大きな負担になる。
そこへ公費によって補助して差し上げたいという着眼点は素晴らしい。

が、従来の発想では「そこまで」なのです。

そこまでたどり着く条件が、現在「法の隙間」になっているのです。


その中身はTweetにあるとおり。
せっかくの筋電義手、素晴らしい技術です。
そしてこの高額な義手(約150万円するそうです)が、なんと健康保険適用で、最大自己負担が約4万円だそうです。

しかし---
このせっかくの保険適用に「条件」がつくのです。


筋電義手を使いこなすには特別な訓練が必要で、
その訓練機関(施設)において約3年ほどかかるそうです。
その3年の訓練を経て、やっと使いこなすことができます。
そこで医師による、『(筋電義手を)使いこなせていますよ』という、この“お墨付き”が必要なのです。
医師の認定によって初めて「保険適用」となります。

しかし、訓練に関わる費用については、
訓練用義手の使用等の経費も含め、3年間で約300万円もかかるのです。
この部分が保険の適用ができないそうです。


これが法の隙間。
せっかくの筋電義手の保険適用に関し、医師のお墨付きまで必要なプロセスがありながら、
その必要不可欠なプロセスに対し、何の公的支援、補助がないとは納得がゆきません。



■届かぬ行政の隙間を、どうか政治の力で埋めてほしい

医療行政の隙間や盲点を、どうか政治の力で埋めてほしい。
良識ある政治家が、縁の下の力持ちで前進させた功績は多々あります。
これまでもそうであったように、これらに光を。

今回のこの問題に対し、
先ずは「こういう矛盾が存在する」という事に政治が気づいていただき、
そして手を打っていただく。

政治の出番です。
「お願いする」じゃなく、
「やってもらわないと困る」んです。
そして、そのためには
私たちが声をあげてゆかねばなりません。

昨今、大流行(はやり)のデモや、ミエミエのパフォーマンスよりも
もっともっと時間を有効に使ってほしい。

もっと光をあてなければいけないことは山積しています。
それは現場に立たないと見えません。
「足元」で苦しんでいる人に気付く「アンテナ」を張ってほしい。







明日はきっといい日になる----

否、 いい日にしなければいけない。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村



【2016/10/16 10:10】 | ◇社会考察・福祉共生
|
(9/12初稿掲載の解答付き新規記事です。)


パラリンピックの熱戦に感動しましたね。

さて今回は、
目のご不自由な方の「人権」を尊重するいう視点で、ひとつ考えてみましょう。

これは「人権」のケーススタディです。


Q:例えば貴方は、夜景の素晴らしいレストランの店員だったとします。

ある日、目の不自由な方が店を訪れました。
さて、貴方がどちらの席をご案内しますか?



①目がご不自由であっても、お客様もきっと美しい夜景が観たいに違いない。 
だから、店員のいる場所からは少し離れているが、奥の窓際の、夜景がよく見える席をご案内した。

②何かあっては大変だ。 だから私たち店員がいつでも目が行き届き、お客様からの声も届く、
できるだけ近くの席をご案内した。

③その他。



では、 しばしお考えください。

考え方は人それぞれだと思います。
しかし、今回は最初に申しましたとおり、「人権」のケーススタディです。
したがいまして、「正しい」答えがあります。



にほんブログ村

答えはコチラ。


....................................................


【正解】  ③その他   『お客様ご自身で選んでいただく。』


大切なことは、「自分で決める」 といったこと。


どうでしたか?


もし、「介護」に似た着眼点であったなら、②かもしれない…。

また、①を選んだ人は、「健常者と同等に扱っている」という視点がある…。

たしかにどちらも大切なことではありますが、
でも、ややフライング気味といえます。


でも、設問でも申し上げたように、 「人権」とは何か?を考えたとき、
普通に我々があらゆる場面で「選ぶ」ことのできる権利が、
同様に、どんなハンディキャップのある人にも備わっている とうこと。

「ハンディキャップがおありなんだから、こうだろう」…

こういう思い込み が、知らず知らずのうちに、
人権という大切な視点(機会)を奪ってるやもしれない…

くれぐれも気をつけたいものですね。


ただ、勘違いしないでほしい。
選ばせておいて、放置ではありません。


ハンディキャップを支えて差し上げる行為は、周囲の当然の「前提」です。
その上で、
勝手に我々が「こうじゃないかな?」と思って「押し付ける善意」ではなく、
先ずは「どうされたいのか? 」があって、
次に、そ・の・た・め・に、「どこが(何が)お困りなのか」を、支えて差し上げるのです。

この順序をはき違えてはなりません。



健常者が陥やすい勘違いとして、

「お役に立っている」という思い込みの前提で、
なんら省みる事もなく、物事をノンストップで進めることをたまに見かけます。

そんなものはただの自己満足、
言い換えれば増上慢です。






実際、どんな場面でどうすればよいのか?

距離を縮める「勇気」です。


『何かお困りのことはありませんか?』

日常、いろんな場面で眼の不自由な方がいます。
こう、言葉をかけられる人って、見ていて意外と少ないのが現状です。






余談になりますが。

思い出すと、この春。
おそらく、はじめての就職を控えた(であろうと推察される)、目の不自由なお嬢さんが、
お母様と一緒に、駅の(たぶん)下見に来られていました。

事前にいろんなことを調べているんでしょうね。
何かの位置だとか、歩数だとか、危険個所も。
お母様と一緒に、確かめてらっしゃいました。


日がながれ、出勤時間帯。
最初は改札の入り口までお母様が見送りにきていました。
「行ってきます」
そんなやり取りがあって、
お母様も、さぞ心配だったのやもしれません。


駅のハード面は万全か?
通勤のみんなも何かあったら手助けしていれるかな?

私も内心、親目線でそわそわが止まりません。
なにせ、わが娘と言ってもおかしくない年頃のお嬢さんです。


どうしようもないけど、
いろんな想いがまじって、
不覚にもこみ上げてきます。
よくわからないんですよ、このウルウルが。

頑張ってほしい、
ただただ、そう思う。
これから続く、長い長い旅路に、
おじさんも、貴女の幸せを陰ながら応援してします。


と、締めくくるのはまだ。


続きがあります。

ある日、
こんどは、ちょうど仕事の帰り、改札に上がってゆくと
彼女(お嬢さん)がお一人で何かを待っています。

『何かお困りのことはありますか?』
と、とっさに、声をかけました。

なんてことはない。
お節介な私は、こういうのはかなり多いので。


---にこっ。

彼女の素晴らしい笑顔が。  (おっちゃん、びっくりしたよ・笑)

『あ、ありがとうございます! 大丈夫です。』


満面の笑顔に、ほっこりさせてもらったのは私。 (おっちゃんこそ、ありがとう!)



ただ、その笑顔の瞳の奥には、
やはり、光を通さないであろう瞳の独特の姿があった。
過酷な現実がそこにあった。


『おっちゃんも、耳がだいぶ不自由で、いっぱい困ったことに直面するけど、
お嬢ちゃんのこれからのこと、ほんまにほんまに祈ってる。』
と、心の中でつぶやいた。


そうだ、

また会えたら、
こんどは「おはよう!」 と言おう。




にほんブログ村

【2016/09/20 00:01】 | ◇社会考察・福祉共生
|