すぐ傍にあるしあわせ
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さまざまな人々の尽力、
そして大統領の決断がこの広島訪問を実現した。---


オバマ大統領の広島訪問を伝える記事とともに、
大統領が発した核廃絶に向けてのスピーチを伝える記事も目立つ。

そこで、そのスピーチのどこに注目したかの
そういった意見をあまり見ないので、
私なりの注目部分を取り上げてみた。


『技術の進歩には、道徳の進歩が伴うべきだった。』

オバマ大統領のスピーチの一節だ。
この言葉に、人類の歩みへの大きな課題が読み取れる。


縁あってここをお読みいただいている皆様とともに
考えてまいりたい。






原始…
人類は 「道具を使う」 ということを自ら発見した。

“道具”は便利だった。
木を削り、火を起こし、そして狩りにも。

生活が豊かになった。

やがて、小さな集団の些細な対立に
武器として変化をも遂げていった。

人間が、人間を殺めるために
その「道具」が使われ始めた。

それら道具は、「武器」と名を変え、進化していった。

道具を生み出す「技術」が
やがて独り歩きを始める。

より強く、
より大量に。

コントロールを失った「倫理」(道徳)が、
技術を更なる「悪用」へと導く。

科学の発展、技術の進化は
いかようにも「変換」される時代になっているということ。





残念なことに、
否、現実には
武器開発で培われた技術が、民生へフィードバックされた例も少なくない。


遠くを爆撃するために、航続距離の長い航空機を生んだ。
その技術は、やがて世界の空を満たしてゆく。

嵐の海に着水できる軍用飛行艇が、
海難救助に大きな力を発揮。

こんなことは一例に過ぎない。


兵器が「使われ方」を変えることによって、
人類の希望へと変えてゆける。


----「科学技術」は何のためにあるのか?
永遠のテーマだろう。


が、今わかっていることは
人間のコントロールを遥かに越えてしまうような、高度な技術において

まさにオバマ大統領の言葉のとおり、
『技術の進歩には、道徳の進歩が伴うべきだった』 のである。





いわゆる「受験勉強」に強い人は多い。
大学、あるいは大学院にまで進み、高度な知識、科学技術の第一線に立つ人…。
 
数学、工学、物理、化学…、さまざまな「理系」の、最先端の技術が
人類の幸福へ貢献すべく、日夜、研究されている。

が、そこに

「理系」(自然科学分野)だけでいいのか?

昨今、国立大学において、文系学部の廃止を訴える論調もある。
文系は「もはや不要」とまで言われ、その存在価値を問われている。

ほんとうにそうだろうか?
理系(自然科学)だけによって成し遂げられるものなのか?

(文系の経済学部でも、経済理論を読むにあたり、本当は数学知識は不可欠なのだが…)



オバマ大統領が触れた、この(冒頭の)一節は、
端的に言えば、「偏った知識」 の危険性に通じるのである。


武器に「変化」する(させてしまう)科学技術のみならず、
たとえば、
遺伝子操作による生命倫理の問題など、
技術的に「できる」からといって、
「やっていいこと」とは、ただちに結びつけてはいけないものもある。

まさに、科学技術の軍事転用と同じ理屈である。


したがって、

今こそ、科学技術の発展にこそ、 (文系であるところの)「倫理」「道徳」が
ますます必要な時代なのである。


文系と理系----
この「分類」をこえたもの、
これ即ち、「リベラルアーツ」だ。

◇リベラルアーツ  ~核の「次代」へ 


人類の希望へ、

「人間」へ向きあう時代だ。










ぜひ、追記もご一読ください。
(↓クリック)
【追記】









【再追記】


真珠湾と広島を「同列視」する論調がある。

私は、「同じ」とも「違う」とも言わない。
なぜなら、論じる人によって分類の観点が異なるから。

ただ、

人には「消し難い記憶」があって、理屈(ここでは観点)を越えた「わだかまり」が存在するのも事実だろう。

それを乗り越えてゆけるのが、政治決断だ。
目的観がはっきりしていれば、できるはずだ、 安倍総理閣下。






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【2016/05/28 10:00】 | ◇論壇・主張
|

No title
あべひ
現状はどうであれ、一国の代表者が先陣を切って「核」のない平和な
社会に言及したことが素晴らしいとおもいます。

Re: No title
宮部 生蔵
コメントありがとうございます。

いろんな注文をつける人もいますね。
それぞれに様々なお立場が
ありますので、
大統領に対して心ない難癖だけでは、前進のキッカケすら摘んでしまうと思います。

なお、何度か私が提起させていただいている「リベラルアーツ」ですが、
記事内リンクにある、拙過去記事で紹介している「全体人間たれ」の言葉に通じるものだと考えております。
その上で、その意図に気づいておられる方がいれば幸いです。



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大阪府立大学・学長、奥野先生。
『これからの技術者は、哲学や倫理を持った高い教養(リベラルアーツ)が求められる。』


ここで言う、「リベラルアーツ」とは?…

ものすごく簡単に言えば、
理系、文系の枠を超えた、いわば総合力のこと。





昨日、嫌なニュースが世界を駆け巡った…。

国際社会からの自制を促す声、懸念を振り切り、
某国による事実上の「核攻撃」を想定した実験が強行された。

唯一の被爆国・日本はもとより、
世界が非核へ向けた膨大な努力へ、あざ笑うかのような暴挙としか言いようがない。

科学技術は人類の幸福のためにある。 
原子力という技術を、人殺しに使うサタンが、
技術者の仮面をかぶっている。


哲学、倫理。-----
時代が求めている。
核、その「次代」へ。

そこに気づいている人の声を聞こう。


.............................................................


【追記】

元来この「リベラルアーツ」は、我が恩師の言葉に置き換えれば 
『全体人間たれ』 だろう。
(全方位の人)




理系/文系を超えた総合力-----

技術の発展は世の中を便利にしてきたと同時に、不幸の道具にもしてきた。
(例、刃物が調理や狩りだけでなく、人と人が争う道具に使われた。等)
これからもっと高度な科学技術が発展してゆくにあたり、
技術者自身の中に、もっと高い次元で「哲学」や「倫理」が必要になってくる。
したがって、工学(理系)だけではいけない。 
リベラルアーツ(総合力)が必要だ。




【2016/01/07 00:01】 | ◇論壇・主張
|
ある紛争地、いわゆる武装勢力。
なんとも、日本人自身が少し頭をかくような「誤解」が、現地の「常識」となっている。

『日本人ってスッゲー。 アメリカやロシアと一戦交えたんだからな。』
『国が廃墟になるまでアメリカと戦ったんだ。』

-----反米、反ロの地。
いくら欧米が和平の仲介をしようが、彼らの信用は地に落ちている。
では、いったい誰がその大役を果たし、平和をもたらすことができるのか?

この少し頭をかくような「誤解」が、なんとも潤滑油として活かせている。

『日本人に言われちゃぁ、仕方ねぇな。』
----ほんとうの話である。



その日本が、「米軍とともに戦うことが出来る」 ということに、
彼らが「気付く」日が、やがて来るのだ。






紛争地に赴く「国際交渉人」島田久仁彦さんは言う。

『私には流儀があります。
どんなに弾が飛び交うようなところでも、けっして防弾チョッキは着けてゆきません。』

『そんな「身構えて」いるような姿は、警戒心のあらわれ。
相手は必ず「俺たちを信用しているなら、それを脱げ」と必ず言ってきますからね。
それなら、最初っから着けて行かないんです。』

----命がけである。

「命がけ」というのは、なにも“勇んで戦う”ことだけを指すものじゃない。
「勇んで戦う」ことが美化され、いちばんの「勇気」であり、「解決策」であるような錯覚をしてはいけない。

戦わずして、いかに「落としどころ」をみつけるか。
そこへの「命がけ」があるのである。

島田さんは言う。
『交渉とは勝ち負けではありません。』





『備え』という、 ファイティングポーズ------

その「備え」が、 ほんとうに相手への『やめましょうや』のメッセージになるのか?
「いざとという時」への“防弾チョッキ”が、相手へのメッセージになるのか?
私にはわからない。

だけど、私に少し見えるような気がする。
かすかな光。

日本がすすむべき道が。



信用される日本へ------ 
  



【2015/09/22 00:01】 | ◇論壇・主張
トラックバック(0) |
NHKマッサンで、ついに一馬が出征。
(ドラマの話ではありますが、たかがドラマ、されどドラマです。)

戦争とは、こうした「普通の庶民」の人生を奪う悪魔です。

この先のドラマの展開はわからないですが、どうか一馬が無事に帰ってきてほしい・・・
ドラマとはいえ、強く感情移入するわけです。
何故ならば、かつて我が国で起こった幾万もの「実話」なのですから。

赤紙ひとつ (召集令状=薄赤い紙のため) で呼び出されます。
いつの世も、 勇ましい旗を振るだけの連中の、実際に「消耗品」として使われるのは、
ついこないだまで普通の生活を営んできた名もなき人々です。

----『おめでとうございます、召集令状です。』
こう告げて役所の職員が召集令状を持ち、伝達に来ます。

----『おめでとうございます、名誉の戦死をなさりました。』  (細かく正史はご容赦ください)
戦死をなさった場合、こう告げにきます。
(注:一馬がけっしてこうなるわけではありません)

そして、英霊として靖国神社に祀られるわけです。
靖国とは、「もし戦死しても、お国が祀ってあげるから安心して死んでらっしゃい」 といった、
戦争遂行を精神面でサポート(むしろ煽り)の「装置」だったのだと、私は思います。
私はこれを「靖国“装置”論」と名付けました。

供養としての位置づけをなさる方もいます。
実際に何百万人もお亡くなりになっているわけですから、
ご遺族の心情を逆なですることはけっして本意ではありませんが、でも実際に靖国神社が果たしてきた役割は、
「神の名の下のジハード」といったイスラム原理主義過激派の生命観にも似た、生命尊厳の対極にある生命観ではないでしょうか。


愛する人、愛する家族、愛する仕事、愛する故郷-----、
人生のあらゆるかけがえのないものから分断され、命の「やり取り」に駆り出されるのです。
やるも、やられるのも真っ平御免です。
大多数の召集された一般の兵隊さんは、誰も殺生を望んでいないでしょう。
ただただ、もとの生活に戻してほしい----。そう願うのだと思います。


戦争に良い戦争/悪い戦争など分けるものなどあるはずもありません。
敵に向かって「立ち上がれ!」の“敵”とは、相手ではなく、暴力に訴える行為のことです。

「手をこまねいて、黙ってやられろというのか」
安易な「防衛戦争」容認の奥底もまた、生命尊厳への挑戦にほかなりません。

名もなき庶民の平穏を一変させ、人生を奪う「手段」に、何の正当性があるのでしょうか。
我々が目指すべく挑戦とは、そうした手段に訴えなくてもよい世界の構築です。

簡単ではありません。
暴力が、堰き止めた堤防を決壊させる「瞬間」で始まることに対し、
これら「平和の維持」は、まさにその堤防を保守管理する、いわゆる「継続的」な運動であります。
もっとも尊く、もっとも労を要するでしょう。
“保守管理”ともいえるそれは、もっとも地道なものです。


「マッサン」では、みんなが一馬に対し、「無事に帰ってきてね」と言えません。
「言えない時代」だったのです。

紛れもなく、私たちの国にあった時代背景なのです。
命を惜しみ、
命を尊び、
命を心配する…
その「あたりまえ」を、あたりまえに言えない時代----
二度とあんな時代に逆戻りさせてはいけません。


ドラマ中で以前、 大阪時代のマッサンにエリーさんが 「行ってかえり」 と送りだします。

この 『行ってかえり』----
「行ってらっしゃい」に、もう一歩踏み込んで「必ず無事に帰っておいで」と付け加える意味をなしているとの事。
広島県の竹原(マッサンの故郷)の方言だそうです。
素晴らしい言葉だと思います。

商人(あきんど)の街・大阪船場(せんば)では、
昔から丁稚(でっち)をはじめ、使いにでる店人に、 『おはようおかえり』 と送り出します。

丁稚 『ほな、だんさん、いて参じます』 (そしたら旦那さま、行って参ります)
主人 『おはようおかえり』

こんな感じです。
これも、「早く無事に帰っておいで」という願いがこもっております。
竹原の「行ってかえり」と同じ心がこもっているのです。

ドラマ、
身内の“壮行会”の様子は、表向きは勇ましく、戦いへの武運長久を口にします。
しかし、本心では誰もそんなことよりも、無事を願っています。
最後の一幕、カーテンを閉め、特高警察の目を遮りながら、涙で彼をおくりだします。

もらい泣き。

「一馬くん、行ってかえり。」
私は、心からそう願いました。



みんなの「日々」を奪う戦争に、私は無条件で反対します。

♪日々(←クリック)



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【2015/03/08 01:01】 | ◇論壇・主張
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