すぐ傍にあるしあわせ
ご存じない方も多いかもしれないので、一応お知らせしておきます。


9月10日(日)、テレビで NHKスクープドキュメント「沖縄と核」という番組がありました。

番組公式サイトはコチラ。 (←クリック。予告動画もありますので、ご参考に。)

その中で、米軍の核ミサイル・メースB基地の紹介がありました。
当時は本土返還前、米国の施政権下にあり、(領有権下でも信託統治でもありません)
東西冷戦下、核戦争の直前とまで言われた緊張のもとにありました。

その重要な施設であった核ミサイルの基地ですが、現在の姿が実はこれ。

創価学会・沖縄研修道場 (←ぜひクリック!) の中にあるのです。

沖縄研修道場

101.jpg
出典URL

番組の中で、この現在の姿・状況が、創価学会施設であることは一切触れられていません。
ですので、私個人が番組を視聴した中で、気づいたこととしてこの記事を発信させて頂いております。
(「学会広報」の二番煎じ記事ではないということです。)


なお、現在の政治課題について、ここでは言及は避けます。
ただ、もう何年も前の事実として、こうした負の遺産を平和の発信地として活用しようという発想なんざ、
とても、どこぞの〝お坊さん〟には思いつかなかったでしょうね。

番組では、元基地詰めの兵士が何十年ぶりに訪れ、現在の静かな様子に驚いていました。



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【2017/09/11 00:01】 | ◇人生哲学
|
世の中を反映してか、資格試験に挑戦する人が多いそうな。

職業上、必要に迫られてではなく、
何か漠然と「資格でもとっておこうかな」といったものが、少なからずあるようだ。

資格でも・・・って、随分と安易な発想ではあるが、
世の中、片手間に取れる資格があったとしても、
そう簡単に収入アップや、はたまた好条件の転職に至るとは限らない。
また、片手間では取れないような資格にいたっては、並大抵の努力では取得は難しいのは言うまでもない。

よく自主学習(独学)で、通勤時間などを利用してチャレンジするケースも多々ある。
しっかりと学習計画を立て、実行に移していないと、おそらくは流されてしまうことだろう。


とある、まったく畑違いの難関資格に挑戦している後輩がいる。
その彼からそのことを聞いたのは、もう3年前の話だ。
まったくの独学だそうだが、進捗は思わしくないらしい。

そんな彼に私は一つだけ質問をしたことがある。
『いつまでに合格したいの?』

彼は『う~ん』と苦笑いしたまま明確な回答はなかった。

難しい資格である事はわかっている。
が、 「合格」という目標到達位置は立てても、
「いつまでに」という時間軸がないのだ。

「あわよくば受かりたい」とまでは失礼ではあるけれども、
なんとなくそう感じてしまう、覚悟の無さを感じざるを得ない。





ところで、これは何も資格試験の話だけでなく、
悩みを信心で解決しようと思っている人にも当てはまる。

時折、いつも自身を 「頑張ってる途上」 のアピールしているしているけれども、 
結局、 「いつまでに叶えたいのか?」 が見えてこない人がいる。 

自分で期限を切らんと真剣勝負にならない。

少々生意気を言うようだが、
「期限」とは、覚悟の異名だと私は思う。

これは他人事として評論家まがいに突き離した意味で言うのではない。
自分の経験からそう言えるのです。

厳しいことを申し上げることになるが、
明確な目標を立てない祈りは、ただの念仏だろう。
(念仏とはいっても、宗派の話ではなく、概念として「念仏」のスタンスだと指摘させていただきたい。)

したがって「無限地獄」であり、 (念仏無間地獄)
苦しむのも「当たり前」ということ。 


迷いが迷いを呼び、結局は無限ループ。 
「頑張っているアピール」はするものの、
何がしたいのかさっぱり分からない。 (少なくとも「見えて」こない。
ぐるぐる同じところを回っている。 

そいう人をみるにつけ、「期限」を切ることの大切さを痛感する。





ブログやSNSに「自分エール」もいいが、
結果を出す以前に、書く事それ自体が「目的化」している人もいる。
要するに、言っちゃった時点で満足している姿だ。
こういう人が、SNSに安住してしまうのである。

こうした「空手形」の乱発は、やがて不渡りとなり、ついには倒産だ。
ご同志である。
そんなことになってほしいわけがない。

しかし、創価系ネットコミュニティの中には、
ぬるま湯の如く、いつまでもそうした無限ループの中に「飼い殺し」している例がある。残念だ。


『ゆでガエル』 の喩え をご存じだろうか?

鍋に入れたカエルは、最初はその心地よさに浸り、逃げることもせず、やがて茹で上がり死ぬ。


ネットコミュニティで励ましているつもりが、度が過ぎる安住にその人を飼い殺しにし、
結果的に依存を招いている。

罪なものである。





「信心」
つまりは、信じる心。
題目といっても、何時間唱えようと「信じる強さ」がなければ意味がない。

では、信じる強さとはどこにあるか?どう「伝える」か?
僭越ながら、究極の「叶う祈り」をご伝授したい。

祈りの中に、
『叶えて下さってありがとうございます』 と、先に「感謝」するのです。

まだ叶ってもいないのに感謝とは、いささか滑稽ではある。
が、 『叶うはずだ』という強い確信がそこにないと、絶対に言えない祈り といえる。

その「絶対に叶える」という確信と覚悟が、「今」必要だ。
因果具時である。




今回の記事の最後に、これを贈りたい。

「変わらない」のは、「変えようとしない」からだ。 



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【2017/09/10 00:11】 | ◇人生哲学
|
今年の「24時間テレビ」での二つの出来事。
少し綴ろうと思う。---



■羽生選手からのエールを、心ない〝言葉の変換〟で伝えたテレビ局


スケートの羽生選手が、同じ喘息を患っている子どもたちに、

『喘息を持病として持っている人にとって、咳がでるのは普通のこと
だから人と比べる必要はない。 いつか一緒にスケートの練習をしよう!』 

…とのエールを、テレビ局は
『羽生選手が病気を言い訳にせず世界で活躍』と〝変換〟した。


テレビ局のこれに、批判が湧いている。 

静かに羽生選手も抗議の意思を示したという。


喘息(病気)は「言い訳」なのか? 

重い病気や完治が難しい病、あるいは障がいで、本当に運動ができないお子たちが、
僕は言い訳をしているのでしょうか』 と思い詰めてしまう。

心ない言い回しに変換したテレビ局は、事の本質を全く理解していない。


羽生さんのエールは当然ながらそんな意味ではない。
障がいや病をテーマにした番組でありながら、この有り様だ。


喘息を自然なこと、当然のことと受け入れ、
そこから自分らしく、そして目の前の出来事にチャレンジしゆく
---

「言い訳にする、しない」なんて話ではない。
「言い訳け」という言葉の裏にある、 「後ろめたさ」など微塵も感じる必要など、一切ないのだ


◇ 


そういえば、時折みかける〝信仰体験〟に、これに似た根っこが見えるケースもある。
「治った」ことが偉大な信仰の本質ではない。

例えば、 
オレの難聴は物理的に治らない。 
色覚異常も治らない。

これでどれだけの悔しい思いや、辛い思いをしてきたことか。

しかし、時に助けられつつ、
 時に〝克服〟し、
  自分の居場所を懸命に作り上げ、 そして生きている。

たとえ治らなくとも、
キラリと光る、「自分だからこそ」の場所をつくることが大切なのだと。

「言い訳」にして逃げるのではなく、
ありのままの姿〟で、「克服」してきたんだ。



■義足のダンサー・大前さん、『ありのままに生きる』。


もうひとつ、この今回の「24時間テレビ」で、目にとまったものがあった。


義足のダンサー大前さん---。

ダンスについて全く無知なオレが下手なコメントは差し控えたいが、凄すぎる。
クラシックバレエに根差した「表現」の世界は、音楽ユニットで踊っている人たちとは世界が違う。  

ハンデキャップを乗り越え、
その大前さんは言う---

 『ありのままに生きる』。



■「壁」に挑戦しているか?


よくネットで、 
基本的には 「自分のわがまま」 に過ぎないものを (厳しいことをいうが、そうだろう?)
いとも簡単に
「自分らしく」だとか 「ありのままに」 って言う人がいる。


そういう人に限って、【壁】に挑戦していないことが多々あろう。(全てじゃないが) 

まったく意味を履き違えている。

(※大前さんとは真逆だわな。)



薄っぺらい信仰美談にすり替えてはならない。





野球の「ファインプレー」について聞いたことがある。

『 飛びついて捕球より、先回りしてしっかり捕球。 これがほんとうの「ファインプレー」である。』  


華々しいホームランのような、ネット上の信仰美談の、
「表紙の裏」を読み解かねばならない。




■それでも前に進む意味---

今回のラストに---

今ふと思い出した指導(体験談)がある。


骨肉腫の少年の話。
ある男子部員が背負って入会の場(当時ご受戒)へ。

少年「足が生えますか」
青年「生える!」。

そんなわけがない。少年だってわかっている。

未入会の両親の制止を振り切って猛然と題目。
死の淵に、「生える!」の意味を悟る少年。

両親を折伏し霊山へ---。涙。




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【2017/09/03 00:11】 | ◇人生哲学
|
◇「対治」と「同治」  
~恣意的か故意か? 御書解釈にみる「大聖人利用」の過ち。



一般的に、攻め(責め)滅ぼすことを「退治」という。時折この退治と同じ意味で「対治」という漢字を充てる場合もある。
しかし、この「対治」を使う場合、注意が必要だ。 
なぜなら、この「対治」の、ある意味ステップアップである「同治」という言葉の意味を並び比べればそれがわかる。ともに仏教用語だ。

例えば、悲しんでいる人に 『悲しんでも仕方がない。元気を出して』 と言って悲しみから立ち直らすのが「対治」であり、
更に一緒に涙を流すことによって、心の重荷を降ろさせてあげるのが「同治」だ。 
わかるだろうか? 同治は相手と同じ立ち位置に寄り添うものであり、まさに『同苦』と言えよう。

日蓮大聖人が『速(すみやか)に謗法の者を治すべし』と言ったこのケースは、
例えば「三類の強敵」というよりも、邪教で不幸になる人を救って(治して)あげなさい、とういう行動を説いている。
そこには当然、対治と同治を前提にした「治す」が込められている。

大聖人の謗法呵責の御書の中で、厳しく「責め」「攻め」を説く御文もまた多い。
しかしながら、時にそれは「三類の強敵」に対する戦いであると同時に、そこへの誤って帰依する民衆を「救済」する一念であらねばならない。
誤りに気付かず、その結果としての病いや宿命に苦しむ姿に対し、同治(同苦)する姿だ。

まさに、この後者の姿がさきの御文といえよう。だからこそ「治」という言葉を大聖人は使われた。
 『大聖人のご指導は、高度で難解な大哲理から、平仮名しか読めないご婦人に充てられたお手紙まで、変幻自在である。』(戸田先生) 

結論。 いろんなケース、場面において意味があって説かれる御書。 そこを理解して、このたびの「治すべし」を読まねばならない。 
謗法呵責は当然だ。しかしながら、勢い余って「攻めよ!責めよ!戦え!」で何もかもを「一緒くた」に「解説」するのは、正確さを欠いた「大聖人利用」になる。

御書・指導の引用は慎重でありたい。
責任の所在が曖昧なネットブログなら尚更だ。



※「Amebaなう」への投稿より抜粋、編集。

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【2017/08/23 04:30】 | ◇人生哲学
|
◆かつて学会攻撃に暗躍した「乙骨正○」氏の背景に学ぶ。 
 ~今、創価ブロガーの心に潜むその系譜


.............................................................

若い学会員さんには、あまり馴染みのない人物かもしれないですね。
というか、学会が雑誌や新聞、あるいは時の政治家、宗門から総攻撃を受けていた時代すら知らないかもしれない。

学会批判といえば、思いつくのはネットの罵声、あるいは「学会キライ」…そういう身近な友人知人たちの声ぐらいなものでしょうか(笑)

創価学会を脱退し、批判あるいは攻撃に転じる人たちを論じる記述は多々ありますが、
元顧問弁護士・山崎○友、元教学部長・原島○たちの名を挙げることが多いようです。
私のほうからは論じることは差し控えます(笑)

そのかわり…と言っては何ですが、 「乙骨正○」 氏を考えてみたいと思います。



■序章

私を含め(笑)、ネットで信心について エラソウナコト を書いている人は少なくありません。

少しこれには疑問なのですが、
中には、正式な書物・機関誌などがあるにも関わらず、まるで広報気取り、コメントコミュにティを形成し、挙句そこで幹部・指導者気取りで書いているブログもあります。
私的文章はどこまでいって感想・意見の類いですから、誰かを「教導」することがエスカレートすると、極端な話、「自分教」に陥りますので、 こと信心の記述においては慎重に書くことが求められるのではないでしょうか。

ネットは安易な面もあります。手短です。
しかし
「現場の対話」と比べ、取扱いを慎重に分別しましょう。
それでもあえてネットで「伝え続ける」ことに、なんだか妙な使命感をいだいちゃった場合、一度謙虚に指導を受けることも肝要かと思います。
学会は指導主義ですからね(^_^)v

前置きはそのへんにして(笑)、
時折、なんとなー--く感じる「ネット(だけ)活動家」はもとより、
「俺は俺は」型人間の特徴 を、鋭く見極めてゆけることが
本質論からの「ナリスマシ」分析学であると、小生は思うのであります、 コホンッ( ̄ー ̄)

そのうえで、とっておきの 「俺は俺は型人間」 の題材として一考察を。


■乙骨正○、経歴

・昭和43年 : 創価中学入学(1期生!)

・昭和46年 : さまざまな理由から、創価高校に進学を断念し、錦城高校に入学。

・昭和51年 : 2浪し、創価大学入学(6期生)

・1年生、2年生時に、自治会の法学部執行委員長に立候補。 
  『創立者・池田先生の構想実現を~!!!』 …と熱烈に訴えるも、落選。

・昭和53年 : 在学中に、 「正信会」問題を契機に家族とともに脱会。

・昭和53年 :  「正信会」機関紙の継命新聞社にアルバイトとして勤務。

・昭和56年 : 「創価大学第6期生O君」として、共産党機関紙・赤旗に登場。


※以降、面倒なので略(笑)  だらだらと経歴を綴ってもしかたないので。  
 
まぁ、要するにその後は、自ら「発信者」の道を歩み、謀略の中心者となってゆくということです。 


■解説  ~そこから見えるもの

開校したばかりの創価学園に中学1期生として入学するわけですから相当なものです。
学園一期生ともなれば、皆さん学費の工面を含め、並々ならぬ苦労と決意で入学させる親御さん、ご本人さんのエピソードはたくさんの体験談とともに存在しますね。

さてしかし、さまざまな事情から創価高校への進学を断念したことは、彼にとって初めて味わう挫折なのかもしれません。
その後、他高(私立)に進学し、生徒会長に立候補、当選をはたしたそうです。
2浪して創価大学に入学。

入学後、さっそく学生自治会役員に立候補。(1年次、2年次) あえなく落選するわけですが、
そこで気になるのが、その「公約」、スローガンです。
ひじょうに勇ましいもので、『創立者・池田先生の構想実現を!』というもの。
背景の意気込みを考えれば、わからなくもないのですが、しかしここは学生自治会。唐突の感もあるわけです。

もとより、 《誰よりも目立ちたい》、この彼の行動心理を多くの人が感じていたそうです。
自己顕示欲の強さは、相当きつかったようです。
そもそも、そういう日常の言動を知る学友たちから支持を受けられるはずもなく、あえなく落選。 再度、落選。

自己顕示のための「師匠」利用----
そして、そこから発する自分中心に過ぎない訴えを 『認めてもらえなかった』 という逆恨み----
彼の変節の人生、逆恨みの人生が、この挫折に起因したものと思われます。

屈折した彼は、その逆恨みとともに、あろうことか180度反転。 宗門・坊主らに接近します。
そして、ついに1978年12月、学会を脱会。
翌79年4月ころには、彼が学生アルバイト先として勤めた継命新聞社(後に正信会の機関紙)で、(本稿冒頭に出した)Y氏、つまり山○正友と出会います。

そこで、あらゆる謀略体質、いくつもの虚構で作られた学会批判を徹底的に仕込まれたと言えます。
そして2年後、山○正友の手引きで「赤旗」に出没、創大生のコメントと称し、屁理屈だらけの創価大学批判を展開。
彼は、その屈折した自己顕示欲を受け入れられなかった腹いせに母校を売ったのです。
その後彼は継命新聞社にそのまま就職。
やがて編集長になり、のちに我々が名を知ることになる反学会ライター連中と出会い、共闘することになります。


■極悪とたたかう「ホシ」を見誤るなかれ

いわゆる、 「広布反逆者」をネットで語るときには、
ただただケシカランだけでなく、大事な「ホシ」を外してはいけないと思います。

元顧問弁護士だの、元教学部長だの、元副会長だの、元議員だの…

絶対厳禁の「派閥」をつくり、大モノ気取り。
現場に足を運ぶことはおろか、檀上から大言壮語、饒舌だけが目立ち、自ら汗もかかない。
「体裁」にこだわり、見栄っ張り。
自尊心だけは強く、諫言には逆上、とにかく「省みる」ことを知らない---。

あと、何だっけ(笑)
大幹部の二世(子息)だとか、学歴だけ長けて、チヤホヤ。
「甘やかした」といってはそれまでですが、
小さな「親分子分」をつくる間違いをおこす者もいたのでしょうね。 不幸なことです。

おや? 
なんだかネットでそういうの、プンプン臭ってきませんか?(笑)


よく考えれば、
広布反逆の極悪人だのと言っても、
その「」なんて、身近な所に転がっているのです



さて、しかしながら
実は学会は「起こした過ち」に寛大なのです。
幾度も再起の機会をもらえます。
福島源次郎も、不用意な発言で先生を窮地に追いやって、役職(副会長)を退きますが
先生は何度も再起のチャンスを与えます。
しかし、とうの本人にまるで「その気」がない…。
やはり、そこか… との感。

師の慈愛が届かない…
そりゃそうでしょう、「師」とも思っていなかった証左です。
彼らにとって、「師」は自分のための踏み台に過ぎなかったのです。

ほんとうに師の存在を心に持っていたのなら、
自分の体裁など構っていないでしょう。

いませんか? そういう、「恥」を気にする人。

ときに厳しい苦言を言ってくれる友もおらず、
「凄い人」で居続けたい自分---
組織、輪にあって、お山の大将ならぬ、「ちいさな山の大将」にならないようにしたいものです。

人間、やはり身近に苦言を言ってくれる人を持つべきですね。


さてネット。
安易に“満たされる”ネットの居心地に、 やがて「魔」はつけ込むのかも知れません。
いつしか肥大化し、反転しないとは誰もわからないものです。

見破るには、その人のいざというとき、出た発言をご覧いただくとよいと思います。
ほれほれ、思い当たるフシはありませんか?(笑)

ありましたよね?
そう、
何をまもろうとしてるのか?---
何とたたかっているのか?---


「先生の構想」が、 組織維持のちっぽけなものであるはずがありません。


■結び

多くはもうよいでしょう。
炎の如く、にわかに奮い立つ姿も、さぞ勇ましい。
しかし、それを先生はしっかりと見抜き、指導くさだいます。


学会草創期、 人材トップをゆく若き精鋭たちに先生はこう言います。

『この中に将来、退転する人物がいるかもしれないんだよ』
『いいえ、断じて我々は生涯先生とともに…』
『そうか。うん。 しかし、それ程 魔の力は大きいんだよ。』

---先生がおしゃりたいこと、ものすごく重いですね。


さて、あくまで一般論です。
単刀直入に申しますと、本気でネットで広宣流布ができると思う人っているのでしょうか?
その確信があるのかないのか定かではありませんが、
とにかく思う事は、そうであろう方々が、連日のブログ更新ができること自体、不思議で仕方ないのですが…。

よくよく見ると、コピペの乱造。
それを見て称賛の嵐(笑)

おいおい、ネット学会員の皆さん
それほど指導に飢えているのですか?(笑)


今の自分の姿に、酔っているだけではないか? …自問自答の日々でありたいものです。


中之島公会堂
大阪事件・師弟の絆の地、中之島公会堂 (写真:宮部蔵之介)


※初稿、2015年1月15日に期間限定公開。 保存記事より再編集のうえ再公開。


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【2017/07/30 15:15】 | ◇人生哲学
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