すぐ傍にあるしあわせ
レール
二本のレールが果たす役割に、妻と歩む人生を重ねる---
(※写真は廃線跡)


こんにちは、 宮部蔵之介ブログです。
ご訪問いただき、ありがとうございます。



昭和生まれで、根っからの浪速っ子、
大阪をこよなく愛してやまない、いたって普通の社会人、夫、父です。

現在、 50代を迎えました。


DSC_0080 - コピー
私と妻の散歩みち。


■お気に入り動画








追記を閉じる▲
スポンサーサイト

【2021/03/11 00:00】 | *未分類
トラックバック(0) |
いつもご閲覧いただき、ありがとうございます。
すっかり涼しくなってきました。
夏が大っきらいなわたしにとって、いよいよの季節です。

気がつけば、かの「短期決戦」のはじまりで、おいそれとブログ執筆なんて余裕もこいてられないのが現状です。
手間暇かけて〝作品化〟するよりも、もっと手軽に綴れるという意味において、簡易投稿サイトの活用が魅力的です。


さて、その簡易投稿サイトといえばTwitterが有名ですが、
それもさることながら、「Amebaなう」というのがありまして、今は事実上のブログ(=日記)の様相となっております。

両者ともに投稿文字数が限られており、うまくまとめれば結構言いたいことが詰め込めます。
それがかえって面白く、投稿内容によってTwittreとうまく使い分けております。

ブログと違ってコミュニケーションツールとしては難点がありますが、
私の場合、誰かとコミュニケーションをとるためというより、自分の発信を楽しんでいるだけなので、
とくに不自由な思いをすることはありません。

むしろ、私の長いネットライフに大きな転機をもたらしたと思います。
短い文章枠の中に、ちゃんと「ブログ」を埋め込む楽しさです。

その一方の、「Amebaなう」が廃止になるそうで、
残念ではありますが、せっかくなので今後はこの穴埋め(代わりになるもの)を模索中です。


また、肝心のブログ本体の更新は止まったままですが、
最近はこの私の「なう」へのご訪問が増え、
「過疎」っている場所を、あえて選んだ私もちょっと驚きです。

さまざまなお考えもあるとは存じますが、
たぶん、「なう」をお読みいただいて、こちらブログ本体で ブログ村への「ポチ」って ご投票くださったのかと存じます。
どんどん順位が上がっていてビックリしております。(ありがとうございます)

ある意味、「なう」での記述は私にとってブログそのものですので、
お読みくださる皆様もそう感じ取ってくれているのはうれしい限りです。

「廃止」を控え、今後どういう展開をみせるかは分かりませんが、
ともあれ、ご閲覧、本当にありがとうございます。

奢らず、日々綴ってまいります。
…と同時に、ぜひ、拙「なう」を楽しんでいってください。 かなりテキトーです(笑)
廃止になるその日まで、私も楽しんでまいります。


ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ


※ブログ記事、一覧へ。

■「Amebaなう」はコチラ。
(日々、更新)

みやべ蔵之介Twitterもよろしく。



【2017/10/05 00:01】 | ◇期間限定記事
|
ご存じない方も多いかもしれないので、一応お知らせしておきます。


9月10日(日)、テレビで NHKスクープドキュメント「沖縄と核」という番組がありました。

番組公式サイトはコチラ。 (←クリック。予告動画もありますので、ご参考に。)

その中で、米軍の核ミサイル・メースB基地の紹介がありました。
当時は本土返還前、米国の施政権下にあり、(領有権下でも信託統治でもありません)
東西冷戦下、核戦争の直前とまで言われた緊張のもとにありました。

その重要な施設であった核ミサイルの基地ですが、現在の姿が実はこれ。

創価学会・沖縄研修道場 (←ぜひクリック!) の中にあるのです。

沖縄研修道場

101.jpg
出典URL

番組の中で、この現在の姿・状況が、創価学会施設であることは一切触れられていません。
ですので、私個人が番組を視聴した中で、気づいたこととしてこの記事を発信させて頂いております。
(「学会広報」の二番煎じ記事ではないということです。)


なお、現在の政治課題について、ここでは言及は避けます。
ただ、もう何年も前の事実として、こうした負の遺産を平和の発信地として活用しようという発想なんざ、
とても、どこぞの〝お坊さん〟には思いつかなかったでしょうね。

番組では、元基地詰めの兵士が何十年ぶりに訪れ、現在の静かな様子に驚いていました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村



※ブログ記事、一覧へ。

※「Amebaなう」はコチラ。
(日々、更新)

みやべ蔵之介Twitterもよろしく。


【2017/09/11 00:01】 | ◇人生哲学
|
世の中を反映してか、資格試験に挑戦する人が多いそうな。

職業上、必要に迫られてではなく、
何か漠然と「資格でもとっておこうかな」といったものが、少なからずあるようだ。

資格でも・・・って、随分と安易な発想ではあるが、
世の中、片手間に取れる資格があったとしても、
そう簡単に収入アップや、はたまた好条件の転職に至るとは限らない。
また、片手間では取れないような資格にいたっては、並大抵の努力では取得は難しいのは言うまでもない。

よく自主学習(独学)で、通勤時間などを利用してチャレンジするケースも多々ある。
しっかりと学習計画を立て、実行に移していないと、おそらくは流されてしまうことだろう。


とある、まったく畑違いの難関資格に挑戦している後輩がいる。
その彼からそのことを聞いたのは、もう3年前の話だ。
まったくの独学だそうだが、進捗は思わしくないらしい。

そんな彼に私は一つだけ質問をしたことがある。
『いつまでに合格したいの?』

彼は『う~ん』と苦笑いしたまま明確な回答はなかった。

難しい資格である事はわかっている。
が、 「合格」という目標到達位置は立てても、
「いつまでに」という時間軸がないのだ。

「あわよくば受かりたい」とまでは失礼ではあるけれども、
なんとなくそう感じてしまう、覚悟の無さを感じざるを得ない。





ところで、これは何も資格試験の話だけでなく、
悩みを信心で解決しようと思っている人にも当てはまる。

時折、いつも自身を 「頑張ってる途上」 のアピールしているしているけれども、 
結局、 「いつまでに叶えたいのか?」 が見えてこない人がいる。 

自分で期限を切らんと真剣勝負にならない。

少々生意気を言うようだが、
「期限」とは、覚悟の異名だと私は思う。

これは他人事として評論家まがいに突き離した意味で言うのではない。
自分の経験からそう言えるのです。

厳しいことを申し上げることになるが、
明確な目標を立てない祈りは、ただの念仏だろう。
(念仏とはいっても、宗派の話ではなく、概念として「念仏」のスタンスだと指摘させていただきたい。)

したがって「無限地獄」であり、 (念仏無間地獄)
苦しむのも「当たり前」ということ。 


迷いが迷いを呼び、結局は無限ループ。 
「頑張っているアピール」はするものの、
何がしたいのかさっぱり分からない。 (少なくとも「見えて」こない。
ぐるぐる同じところを回っている。 

そいう人をみるにつけ、「期限」を切ることの大切さを痛感する。





ブログやSNSに「自分エール」もいいが、
結果を出す以前に、書く事それ自体が「目的化」している人もいる。
要するに、言っちゃった時点で満足している姿だ。
こういう人が、SNSに安住してしまうのである。

こうした「空手形」の乱発は、やがて不渡りとなり、ついには倒産だ。
ご同志である。
そんなことになってほしいわけがない。

しかし、創価系ネットコミュニティの中には、
ぬるま湯の如く、いつまでもそうした無限ループの中に「飼い殺し」している例がある。残念だ。


『ゆでガエル』 の喩え をご存じだろうか?

鍋に入れたカエルは、最初はその心地よさに浸り、逃げることもせず、やがて茹で上がり死ぬ。


ネットコミュニティで励ましているつもりが、度が過ぎる安住にその人を飼い殺しにし、
結果的に依存を招いている。

罪なものである。





「信心」
つまりは、信じる心。
題目といっても、何時間唱えようと「信じる強さ」がなければ意味がない。

では、信じる強さとはどこにあるか?どう「伝える」か?
僭越ながら、究極の「叶う祈り」をご伝授したい。

祈りの中に、
『叶えて下さってありがとうございます』 と、先に「感謝」するのです。

まだ叶ってもいないのに感謝とは、いささか滑稽ではある。
が、 『叶うはずだ』という強い確信がそこにないと、絶対に言えない祈り といえる。

その「絶対に叶える」という確信と覚悟が、「今」必要だ。
因果具時である。




今回の記事の最後に、これを贈りたい。

「変わらない」のは、「変えようとしない」からだ。 



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


※ブログ記事、一覧へ。

※「Amebaなう」はコチラ。
(日々、更新)

みやべ蔵之介Twitterもよろしく。



【2017/09/10 00:11】 | ◇人生哲学
|
今年の「24時間テレビ」での二つの出来事。
少し綴ろうと思う。---



■羽生選手からのエールを、心ない〝言葉の変換〟で伝えたテレビ局


スケートの羽生選手が、同じ喘息を患っている子どもたちに、

『喘息を持病として持っている人にとって、咳がでるのは普通のこと
だから人と比べる必要はない。 いつか一緒にスケートの練習をしよう!』 

…とのエールを、テレビ局は
『羽生選手が病気を言い訳にせず世界で活躍』と〝変換〟した。


テレビ局のこれに、批判が湧いている。 

静かに羽生選手も抗議の意思を示したという。


喘息(病気)は「言い訳」なのか? 

重い病気や完治が難しい病、あるいは障がいで、本当に運動ができないお子たちが、
僕は言い訳をしているのでしょうか』 と思い詰めてしまう。

心ない言い回しに変換したテレビ局は、事の本質を全く理解していない。


羽生さんのエールは当然ながらそんな意味ではない。
障がいや病をテーマにした番組でありながら、この有り様だ。


喘息を自然なこと、当然のことと受け入れ、
そこから自分らしく、そして目の前の出来事にチャレンジしゆく
---

「言い訳にする、しない」なんて話ではない。
「言い訳け」という言葉の裏にある、 「後ろめたさ」など微塵も感じる必要など、一切ないのだ


◇ 


そういえば、時折みかける〝信仰体験〟に、これに似た根っこが見えるケースもある。
「治った」ことが偉大な信仰の本質ではない。

例えば、 
オレの難聴は物理的に治らない。 
色覚異常も治らない。

これでどれだけの悔しい思いや、辛い思いをしてきたことか。

しかし、時に助けられつつ、
 時に〝克服〟し、
  自分の居場所を懸命に作り上げ、 そして生きている。

たとえ治らなくとも、
キラリと光る、「自分だからこそ」の場所をつくることが大切なのだと。

「言い訳」にして逃げるのではなく、
ありのままの姿〟で、「克服」してきたんだ。



■義足のダンサー・大前さん、『ありのままに生きる』。


もうひとつ、この今回の「24時間テレビ」で、目にとまったものがあった。


義足のダンサー大前さん---。

ダンスについて全く無知なオレが下手なコメントは差し控えたいが、凄すぎる。
クラシックバレエに根差した「表現」の世界は、音楽ユニットで踊っている人たちとは世界が違う。  

ハンデキャップを乗り越え、
その大前さんは言う---

 『ありのままに生きる』。



■「壁」に挑戦しているか?


よくネットで、 
基本的には 「自分のわがまま」 に過ぎないものを (厳しいことをいうが、そうだろう?)
いとも簡単に
「自分らしく」だとか 「ありのままに」 って言う人がいる。


そういう人に限って、【壁】に挑戦していないことが多々あろう。(全てじゃないが) 

まったく意味を履き違えている。

(※大前さんとは真逆だわな。)



薄っぺらい信仰美談にすり替えてはならない。





野球の「ファインプレー」について聞いたことがある。

『 飛びついて捕球より、先回りしてしっかり捕球。 これがほんとうの「ファインプレー」である。』  


華々しいホームランのような、ネット上の信仰美談の、
「表紙の裏」を読み解かねばならない。




■それでも前に進む意味---

今回のラストに---

今ふと思い出した指導(体験談)がある。


骨肉腫の少年の話。
ある男子部員が背負って入会の場(当時ご受戒)へ。

少年「足が生えますか」
青年「生える!」。

そんなわけがない。少年だってわかっている。

未入会の両親の制止を振り切って猛然と題目。
死の淵に、「生える!」の意味を悟る少年。

両親を折伏し霊山へ---。涙。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ


※ブログ記事、一覧へ。

※「Amebaなう」はコチラ。
(日々、更新)

みやべ蔵之介Twitterもよろしく。



【2017/09/03 00:11】 | ◇人生哲学
|